『排除型社会』

 近代社会から後期近代社会への変動を、包摂型から排除型への変動として描く本。包摂型から排除型ってのは、

 それは、物質的にも存在論的にも成員を統合する社会、または逸脱者や異常者を同化させようとする社会が、物質的にも存在論的にも極端に不安定な社会、そして逸脱者を分離して排除する社会に変容する過程であった。この過程は、「フォーディズムからポストフォーディズムへ」という先進産業社会の物質的基盤に生じた変化によって促進された。(pp.77-8)

って感じ。つまり、産業構造の変動が、社会の性格を変えたって見方。
 で、排除型社会の諸々の特徴を論述し、排除型から脱すための社会構想を提示していく。

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

  • 作者: ジョックヤング,Jock Young,青木秀男,伊藤泰郎,岸政彦,村澤真保呂
  • 出版社/メーカー: 洛北出版
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本
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 内容については、訳者の解説が簡潔。

 本書は、欧米社会が、一九六〇年代の後半以降(後期近代、ポストフォーディズム)、包摂型から排除型へ移行したという認識のもと、排除型社会の構造と文化を分析し、批判し、あるべき社会の諸原則を構想したものである。本書は、たがいに補強しあう二つの論点から叙述されている。一つ、排除型社会の犯罪論である。排除型社会の犯罪は、構造的排除(階級分化、最底辺でのアンダークラスの形成)と文化的包摂(消費主義の浸透)の矛盾(相対的剥奪感の増大)の表出としてある。(中略)また、犯罪が緊密な人間関係(家族など)のなかで起きる、犯罪と無縁と思われた機関(福祉施設など)のなかで起きる、新たな犯罪が発見されるなど、人々の日常生活において犯罪のリスクが高まった。マスメディアによるモラル・パニックの扇動も、人々の危機感を高めた。人々は、犯罪との遭遇を最小限にするため、起こりうる犯罪のリスクを計算するという保険統計主義的な態度を発達させていった。人々は、安全な道徳空間を防疫境界線で囲み、そこから危険と思われる人々を排除していった。しかしそれでも、完全な防疫境界線を引くことはできず、犯罪のリスクを確実に抑えることはできない。他方、犯罪の統制機関(刑事司法制度)は、ささいな反社会的行動をも犯罪の予兆とみなし、それらを厳格に摘発するゼロ・トレランス政策(割れ窓哲学、三振アウト)を取っている。しかしそれも、刑務所の収監人口を増やしこそすれ、犯罪の発生を抑えることには役立っていない。
 二つ目の論点は、排除型社会の文化論である。排除型社会は、差異に寛容で困難に不寛容な社会である。社会に個人主義多元主義が浸透し、絶対的価値の権威が崩壊し、差異と多様な個性が称揚される。しかしそれは、人々がともに依拠すべき価値とアイデンティティを失うことでもあり、人々は存在論的不安に陥っていった。人々はこの不安から逃れるため、みずからが属する集団に絶対的価値を探し求める。こうして、文化の本質主義が開花していく。人々は過去へ回帰し(中略)、家族と起源の神話を再構築し、そこでアイデンティティの同一性を確定していく。文化の本質主義的理解という点では、支配文化への同化主義も分離主義(多文化主義)も同じである。それは、他者(とくにエスニック・マイノリティ)との境界を確定し、他者と距離をとり、他者を悪魔化し、包摂不可能な(困難な)人々として周縁化することによって可能となるものである。しかし文化の本質とは、他者の文化に対抗して創造されたもの、他文化との混交・雑種化(ハイブリッド)のなかで差異と認知されたものを本質化したものにすぎない。そうではなく、本島の文化理解とは、差異を変容する文化の過程のなかで相対化する変容的多文化主義にある。
 こうした経済的不安と存在論敵不安は、たがいに増幅しあっている。ならば、排除型社会は、どうすれば克服できるのだろうか。ヤングは強力な社会民主主義の立場から、次のように主張する。まず、構造的な不正義が是正されなければならない。具体的に、完全雇用が達成され、富の相続が制限され、業績にもとづいて富が構成に配分されなければならない。すなわち、業績主義と平等主義が結合されなければならない(正義とコミュニティをめぐる問題)。次に、差異を含みかつ排除がなく、寛容が美徳の中心をなすような社会が作られなければならない(文化のポリティクスをめぐる問題)。そこでは、問題を国家や専門家に委ねるのではなく、集中的かつ民主的な議論をとおして問題を評定し、市民が互いの利益を配慮しあうような市民権が、中心に据えられなければならない。同時に、市民と国家が積極的に協力しあう、強力な社会民主主義の社会でなければならない。
 ヤングは、こうした排除型社会論をてんかいするなかで、とくに、構造的排除にかかわってマートンとチャールズ・マレーのアノミー論を、犯罪研究にかかわってふぇ印にズム理論を、文化の本質/差異にかかわってカルチュラル・スタディーズの諸説を、あるべき社会の条件にかかわってアミタイ・エチオーニの共同体主義やナンシー・フレイザーの民主主義論を取り上げ、排除・包摂・本質・差異といった基本概念を軸に、排除型社会を解体し、超克するという問題意識から、それらの明快な評価と批判と展開をおこなっている。本書は、リスク社会論や監視社会論など一連の現代社会論に並び、かつそれらを総括し、先導する刺激的で有用なテキストとなっている。(pp.517-9)

という感じ。「排除型社会」という捉え方は、結構説得的。著者は、

 私たちは、用心深く、計算高く、世事に長け、保険統計的な〔actuarial〕態度をとるようになった。そして、困難な問題を回避し、異質な人々と距離をとり、みずからの安全や平穏が脅かされないかぎりで他人を受け入れる、という態度を取るようになった。しかし、このように判断を留保する態度が一般化するとともに、これとは矛盾する態度が現われた。物質的に不安定で存在論的に不安な状況が、人々のあいだに、自分の感情を他人に投影するという態度を生み出し、道徳主義を広める条件になっているのである。社会のいたるところで、人々の間に非難と応酬が飛び交うようになった。シングルマザーやアンダークラス(中略)、黒人や放浪する若者、麻薬常習者、クラック常習者などの、コミュニティで弱い立場にある人々が、針で突つき回され、非難を浴びせられ、悪魔のように忌み嫌われるようになった。このような新たな排除の世界にあって、本当に革新的な政治をおこなおうと思えば、私たちを物質的な不安定と存在論的な不安の状態に置いている根本原因、すなわち正義とコミュニティという基本問題を避けて通ることはできない。これまでならば、政治的には、一九五〇年代や六〇年代のような包摂型の世界へのノスタルジーに耽ることで、議論を収めることもできた。しかし事態は、もはや後戻りできないところまで来ている。私たちは、もろもろの機会を目前にして、恐怖を取り除くのではなく、恐怖を積極的に受け入れるという姿勢で臨まざるを得なくなった。(pp.13-4)

って言ってる。ある人々が、社会に対するリスク(的要素)の持ち主と見なされ、リスク(的要素)がその人々の本質としてラベリングされていって、そうした人々への排除がズンドコ進む、と。「そういう側面はあるだろうな」って思わされた。
 また、そうした社会を解体する方向も、結構「そうだろうな」って思う部分が多い。上の引用文にもあるけど、「近代(の包摂型社会)に戻れ」っていうのは処方箋ではない。単純に時間を蒔き戻して戻るってことは、社会が変動し新たな経験を積んできた上では無理なこと。それに、(俺が思うに)包摂型にも、「他者の(暴力的な)同化」っていう問題があったわけで。で、同化不可能な他者はやはり排除されていたわけであるから。戻ればいいとはならない。戻らずに、既に経験してきたことをふまえつつ、より良いとおもわれるものを構想していく、と。真っ当だと思う。


 どうでもいいけど、「ジャック・ヤング」さんだと思ってたら、「ジョック・ヤング」さんなんだな。