虚構の効果

 先日いろいろと議論した話の中で、立岩真也さんの文章を引用したのだが、「これ、いいなあ」とあらためて思ったので再掲。

 (前略。ALSの人に見られる自己犠牲を取り上げて:引用者注)私もここで自己犠牲全般を否定することはしないでおこう。ただ二つのことを見ておかねばならない。
 ここでは、まず否定があって、その否定自体は消え去ることはない。彼にとって、この世において、自分とその身体とそれが置かれるその境遇は否定的なものである。とくに周囲に迷惑をかける存在であることによって、自身が否定的な存在であることは、自らにとって動かないこととされる。
 ALSは多く壮年に発症する。多くの人はその時に、人の世話にならず、様々に働き、貢献し、そのことに価値を見出してもいる。(中略)するとALSにかかり状態が進行していくことは、自らの価値がなくなっていく過程になる。そのような認識は、この社会では、ごく自然に生じてしまい、前提として動かないものとされる。人は神の前で平等ではあるとしても、それは、この世では平等ではないにもかかわらずのことなのだから、否定は保存されている。他人に与え助けること励ますことはよいことであり、自らもそうした行いを行ない、そのことによって貢献し、自らを価値づけることはできる。ただやはり、否定そのものは解かれない。その否定はなにか別のことをすることで軽減されることはあるだろうが、消し去るのは難しい。
 だから否定は否定のままで留まる。その上で、それが他者の愛や善意によって救われるという構図になっている。この世では、にもかかわらず肯定してくれる人が存在することにより、否定は帳消しにはならないが、存在が許され、生きられることになるのである。
 ということは、自らが否定的な存在である必要がないなら、ないと考えるなら、話は違ってくるということだ。これが確認しておきたいことの一つである。
 その否定とはなんだろう。それは身体が動かなくなることに関わる。自分の身体でなくとも他人があるいは機械が代わりにできることがあり、それ自体容易なのだが、現実には阻まれることが多い。それで生きるのが難しくなる。あるいは身近な人に負担がかかることになる。できることや貢献できることに価値を置いてそれが失われることを価値の喪失と考えるか、あるいは自分でできなくなると人に迷惑をかけて申し訳ないと言うか。洋風の言い方と和風の言い方と二通りあるが、両方が指している事態は同じである。
 私は著書でずっとこのことばかりについて書いてきたし、第12章(本書の:引用者注)でも述べるから、ここでは簡単にするが、まず自分でできる範囲でしか生きていけないという規則は間違っており、自力でできる/できないと別に、したいことができることがよく、そのための負担を負担できる者たち全てが追うことにすることがまっとうな規則である。次に、自分ができることに価値を置くのはわるくないとして、それほど強い価値を措く必要はない。しかし、この社会は人とできることとを強く結びつけてきた。この点でも社会の側がおかしい。これらのおかしなことによって、その人は否定される。
 問題の過半はここにある。ただそれだけではない。代わってもらえないもの、代わってもらったら意味がないように思われるものがある。進退自体を取り替えることはできない。他人に代わってもらえることであっても、例えば排泄について、自らは自分の身体を意識し、そこに他の人が関わってくることを意識する。そのことに関わる羞恥や引け目があり、このこともまた多くの(ALSを患った:引用者注)人が記している。
 こうした感覚がどこから来るのかもやはり定かではない。引け目の大部分は、前段に記した価値、つまり自分ではなく他人にさせることを否定的に捉える価値と独立に起こることではないだろう。羞恥にはまた違ったところはあるように思われる。なぜ恥ずかしいと感ずるのか。しかじかのことが恥ずかしいことだと教わるから恥ずかしいのだという答は当たってはいるのだろうが、それだけですべてを説明できるかどうかはわからない。羞恥のある部分は定数のように存在するのかもしれない。しかしそれでも、結局のところ慣れることはできるし、実際慣れる。
 そして身体は離れないから、その姿も自分から離れることはない。(中略)そして身体の苦痛があり、その身体を切り離すことはできない。苦痛がうまく除けるか、あるいは減らせるか。また、知覚・感覚についてもそれをすべて代行してもらうことはできず、どこかでは自分の身体を使わねばならない。それがうまく働くか。(中略)
 たしかなかなか難しいところがある。ただ、それらはいくつか足し合わされても、自分の生存を否定するまでにはすぐにはいかない。やはり、現実に生きることの困難(をもたらしているこの社会の仕組み)と、動かない自分が生きること(の価値がないというこの社会)の価値が大きく関わっているだろう。だから、否定を解除することは可能なはずだ。
しかし実際には解除されないとしよう。としたとき、もう一つ起こることを確認しておこう。


 否定という前提が維持されたままであるなら、私が生きつづけていくためには、私から求めるのではなく、他の人から肯定、積極的な申し出が得られることが必要になる。自分の存在の意味が具体的に人に認められ、自分が肯定されなければならない。その人が自らを生きさせることを決め、そしてその関係が継続するなら、自分=彼は生きることを受け入れるだろう。
 (以降、ALSの人の手記を元にした若干具体的な話:引用者注)そして彼にとって、彼がその望みを受け取ることができ、生きさせたいという願いを受け入れ生きることができるようになるその相手は家族だった。しかし家族は彼にとっては存在しなかった。彼は病名を知った翌年の七八年に、先のことを考え、自ら言い出して離婚し、単身で松山にやってきたのだ。他の人からの申し出は、それはありがちことではあったが、むしろありがたいことであるために、そのまま受け取れないものであったように、あるいはそれでは十分でなかったように思われる。
 このような道行は、ただ彼一人が辿ったものでない。他人に依存しないようになることが人になることだと信じるに至る「社会化」の過程がうまくいった場合には、当たり前に辿られる道である。この時、その人の決定にゆだねることはどんなことを帰結させるか。
 生きることを積極的に進めず、その意味で中立の立場を取るのであれば、それは、否定性があってなお生きていくだけのものが与えられることにならないのだから、その人は死ぬだろう。否定をそのままにして、その人の価値や決定に委ねるなら、その人は自発的にこの世から去っていくことになる。ALSにかかる人の多くは分別盛りの年代の人たちであり、その分別のある人が去っていく。
 まずそれは不公平なことではないか。川口(川口さんというALSの人:引用者注)は他の人が生きることを支持し支援した。それで他の人は生きられるようになるのかもしれないのだが、川口自身は、他の人が中立であるために、生きるのをやめる。川口のような態度は一般に肯定され、賞賛もされるのだが、そのような人であるからその人自身は生きられないことになる。その人が自己犠牲的な人であるとして、その自己犠牲が現実のものになってしまうのである。そしてこの美徳を有する人は消え、その美徳をその人に教えたかもしれない周囲の者たちは負担から逃れ楽ができる(中略)。これは不等な、しかも不正に不等なことではないか。

 しかし、その人は自分の意志でその道を選んだのだと、だからそれに文句を言ってはならないといわれるかもしれない。するとさらにそれに対して、このような人のあり方をその人自身が発明したとは考えられない、それは社会的に形成、整形されたものであって、その人自身に負わせるべきものでないと反論がある。このような反論は、なにかというと自己決定・自己責任を言う人たちに抗してなされてきた。しかし、それを言ったらなんでもそうではないか、もともとはどこかから教わったものであったとして、少なくとも自分がそうすると言った、そのことをもってその人の決定、選択とする他ないではないかとさらに言われる。
 この反論の一部は受け入れてもよい。つまり、その人の価値や選好が社会的に形成されたものであるからといって、それをその人の価値や選好として認めないと言うことにはならない。しかし、このことはわかった上で、その価値や規範――ここでは生存に対して否定的に作用する価値や規範――の内容を私たちは問題にすべきだと言える。つまり、その価値を社会が与えているからその人の決定でないとするのではなく、与えているその中身が間違っていないかと問い、それを考えることができる。そしてそれが間違っているとなったら、それを取り消し、別のもの、具体的には生存が肯定されることを提示することである。そして生存が実際に可能な状態を設定することである。
 これが基本になる。しかしそれは難しい、すぐには間に合わないとしよう。とすると、次に、その人に対して、より積極的に、ともかく生きることを支持すると言い、勧めることである。こちらにはいくらか無理があるが、仕方がない。その人が否定の中にあり、それ自体が消去できるのでなければ、それよりも強い肯定が必要となる。そして、同じく、生きるのが実際に可能な状態を作ることである。(pp.250-4、強調は引用者)

 「どんな質・価値の人間であっても肯定されるべき」というのはあるけれど。その前に、ある人の質を「低い」とするようなものや、価値を否定するようなものを与える出所として「社会」を捉え、その上で「『社会』が与えてるそれは正しいのか、と問う」と。で、問うているだけだと間に合わず死んでいく人もいるだろうから、「ともかく生きることを支持すると言い、勧めること」を、その「無理」を承知で行うことの大事さ。
 これ、「『無理』だからやっても意味がない」とか、「現実と乖離した『支持』だからダメ」なんて話にはなるまい。それはフーコーの以下のような言葉を見るとそう思える。

 虚構の問題についていいますと、これはわたしにとって非常に大切な問題です。わたしはこれまでに虚構以外のものはいっさい書いたことはありません。はっきりそう自覚しております。が、だからといってそれが真理の外にある、というつもりはない。虚構を真理のなかで働かせ、虚構の言説をもって真理の効果をもたらす可能性はある、と思っています。いまだ存在しない何ものかを、真理の言説が誘発し、「つくりあげ」、したがって「虚構をつくりだす」、そうする可能性はあると思う。歴史を真理とする政治的現実から出発して、ひとは歴史を「つくりだし」、歴史的真理から出発して、いまだ存在しないひとつの政治を「つくりだす」のです(p.177)

「『無理』だからやっても意味がないことだ。真理じゃない」ではなくて、「『無理』なことであっても、そこから何かしらの真理を見出そうとすること」ってのが必要なんだろう。「虚構の言説をもって真理の効果をもたらす」こと。で、「誰であれ、『ともかく生きること』を支持すること」には「真理の効果」があると俺は思い込んでいて*1、そこからつくりだせる「政治」もあるだろう、と思う。
 とか何とか。この辺の文章を読みつつ思った。「思い込み」の出所をきちんと考えていくことや、「思い込み」の帰結をきちんと見据えていくことは必要なので、相したことも考えつつ。また、こうした俺の思い込みが未来永劫変わらないとは言えないし、より問い方をきちんとしていくことは大事だが。現時点で、問いと共に行えることとして。

ALS 不動の身体と息する機械

ALS 不動の身体と息する機械

ミシェル・フーコー 1926‐1984 権力・知・歴史

ミシェル・フーコー 1926‐1984 権力・知・歴史

 
 で、「そんなこと論じてる/考えてる暇があるなら何かやれ」的な話もあると思うけど、別にこうした論や考えは、行動と相容れないものでも行動を妨げるものでもないように思うんだが。それに、論じたり考えたりするのは、何かの論や考えが絶対的だと確定させるためにやる(だけの)ものじゃないとも思うわけで。こういう場合は特に、仮に論や考えが細かい部分で異なっていても、「ともかく生きれるように」って大きな目的の下に行動してる人間同士ならば、同じ方向で行動できるし。細かい論や考えのすり合わせは行動の後でもやれることだしな、と思うし。

*1:本文で書いたように、これは思い込み。人工物・虚構=フィクションだろう。でも、「誰かは死ぬべき」というフィクションよりは妥当なフィクション。もちろん、「妥当だ」と判断する基準もまたフィクションだろうが。そんなことは分かってるし、フーコーも言うように、「フィクションであるから問題である」と即座に言えるわけじゃない。「あるフィクションがもたらすことの問題性」を指摘して初めて、そのフィクションの問題性は指摘できるはず。で、「ともかく生きることの支持」そのものの問題性が指摘されてはいないと思うし(知らんだけかも)。なお、「誰かは死ぬべき」の問題性は、立岩が指摘するような不等性――「こういうタイプの人は死ぬべきだよね」という価値観によって、特定の人は死ぬが、「こういうタイプの人は死ぬべきだよね」という価値観を共有しそれを妥当なものであると示しておきながら、「こういうタイプ」に当てはまらず行き続けられる人が出る、という不正な不等性――から指摘されてる。